閑文字手帖

馬手に盃 弓手に肴

1319 鯣を揚げよ

 烏賊は美味い。

 お刺身が美味いのは勿論、焼いて、炒めて、干して焙つて、フライにして、塩辛に仕立てて美味く、ごはんを詰めて蒸したのも美味い。敬愛してやまない檀一雄は、烏賊の肉も墨も内臓もひと絡げに、オリーヴ油とバタで一気に炒める、プルピートスといふ料理を樂さうに紹介してゐ゙た。そのひと絡げを塩辛にすると、尊敬する吉田健一が絶讃した黑作りになる。尤も私は新しい…口にしたことのない食べものに、きはめて臆病な男だから、兎に角食べてやれとは、思へないのだけれど。

 様々料れる烏賊の中で、お刺身を第一に歓ぶのは、まあ妥当でせう。それから蛍烏賊。残念ながら、酢味噌和へや、干して焙つたのくらゐしか、口にしたことはないが、それが實に美味いのだから、時期を得て富山で食べたら、帰る気が失せると思ふ。

 さうだそれから、マーケットで賣つてゐる鯣烏賊。験を担いで、あたりめとも呼ぶあの安つぽいのを時々、無性に食べたくなる…などと云つたら、烏賊愛好のプロフェッショナルからはきつと、呆れられるだらうが、好きなのだから仕方が無い。

 もうひとつ。烏賊は天麩羅が美味い。単獨で主役を張れる力量には、疑念を呈さざるを得ないが、大葉や焼き海苔の天麩羅を従へ、もり蕎麦との共演に臨むなら、存分な活躍も期待出來る。洋風…イカフライやイカリングだと、中々さうはゆかない。料理、食卓との馴染み具合が、和洋で大きくちがふのだな。

 胴もげそも美味い。麦酒や葡萄酒、焼酎よりお酒がいい。繊細な純米や吟醸でなく、さういふ銘を醸す藏の、本醸造普通酒を、冷や(ここでは常温の意)でやつつける夜、烏賊の天麩羅は似合ふ。鱚も海老も茄子も椎茸も及ばない。いや私は半ば以上、本気で云ふんである。異論反論は、山ほどあるだらうけれど、そこは嗜好の話だから、勘弁してもらひますよ。

 併し本醸造の冷やより、麦酒が似合ひ叉、嬉しい烏賊の天麩羅があつて、詰りそれが鯣烏賊である。

 大坂の某所に西上の際、必ず一ぺんは立ち寄る店がある。麦酒にドイツの葡萄酒と蒸溜酒が置いてあり、パリパリポテト(歯触りと匂ひがいい)や餃子ソーセイジ(味はひが焼き餃子のソーセイジ)といつた、美味いお摘みも揃ふ中、欠かせないのが、鯣烏賊の天麩羅なんである。

 これは捻りも何もない、名前通りのお摘みで、七味唐辛子を散らしたマヨネィーズが添へてある。鯣烏賊そのものにも味はあるし、ざくざくした感じが快くもあるから、初手はそのままでいい。冷めたら七味マヨネィーズをちよいとつける。口当りが変つてまた美味い。詰り熱くても冷めても樂める揚げものと云つてよく、烏賊に限らず天麩羅に限らず、かういふ揚げものは他にまあ、例を見ないのではないか。一ばん近しいと思はれるげそ天も、素晴しい酒席の友だが、惜しむらくは冷めると堅くなる一点で、鯣烏賊には及ばない。

 ここまで褒めてから云ふと、くだんの大坂の某店以外で、その鯣烏賊の天麩羅を口にしたことがない。馴染んだ呑み屋に、偶々用意がなかつた可能性はあるとして、鯣烏賊自体はさほど、珍しくもない。となれば、それを天麩羅にしてお客に出したのは、發想より思ひきり(試作は重ねたとして)の産物ではなかつたか。

 さういふ思ひきりのあるお摘みを用意する呑み屋が、ちかくに見当らないものか。ある日の午后、罐麦酒で裂き烏賊を摘みながら、そんなことを考へた。