ビーフシチューを初めて食べたのは、千葉県は市川市の洋食屋、平成元年の遅くとも初夏だつた。何故ここまではつきり記憶にあるかと云へば、私はこの年、初めて職に就き、春から初めてひとり暮しをしたからで、かういふ時の初めての経験は、どうも忘れ難いらしい。
海老フライでもハンバーグでも、ミックスフライでもなかつた理由までは、流石に覚えてゐない。廿歳を越した計りの若造が、恰好をつけた程度…序でながらこの頃の私は、池波正太郎のエセーの愛讀者で、間違ひなくその影響を(つよく)受けてゐた…の撰択だつたと思ふ。
旨かつた。
もつと云ふなら、いきなり旨かつた。当時の日記は棄ててしまつたから(今になると、惜しいことをしたものだ)、記憶で書くと、ブラウンソースのお皿に牛肉の塊が三つか四つ、ごろんと乗つてゐて、一皿でずつしりお腹に溜つた。ハイボールを一杯呑んで、幾らだつたか、当時の月給では少々高価だつたから、給料が出た直後の土曜日、お晝の樂みにした筈である。我ながら、慎ましやかな態度だつたなあ。
それで今に到るまで、機會をみつけては、ビーフシチューを食べるのが習慣になつたと云つたら、全國の洋食屋から感謝されるだらうが、實際はさうでもない。市川の経験がよくなかつた。陋屋から十数分も歩けば、うまい洋食屋があるのに、不意に食べに行かうと思はないのは、頭の何処かにあれは月給日の御馳走…“特別な食べもの”と、刷り込まれた結果にちがひない。

併し何でもない夜に、ビーフシチューが目の前に出ると私は、ころころ喜んでしまふ。添へられた麵麭で、綺麗に拭つて平らげたのは、云ふまでもない。